1名無しさん2022/07/05(火) 18:57:08.17
  徘徊する老油田「サハリン」・・・01

 ロシアに対する非難が強まる中で、日本が石油・天然ガスの権益を持つサハリンでの
事業をめぐり、共同で参画していた欧米の国際石油資本(メジャー)が相次いで撤退を
決めた。「サハリンでは大規模な石油・天然ガスの埋蔵量が確認されており、我が国に
地理的に極めて近いことから、供給源の多角化に資する重要なプロジェクト」として、
多元化措置に有効である。と経済産業省資源エネルギー庁「エネルギー白書2012」は、
その有効せいを説いていた。国は折に触れて、日本の北方にあるその土地と資源の重要
性を強調し、欧米各国が制裁を強める中、日本企業は難しいかじ取りを迫られている。
サハリン1、サハリン2がクローズアップされるが、石油開発のサハリンプロジェクト
はこのほか、中国企業が参画するサハリン3をはじめ、サハリン9まで存在するのだ。
 原油価格(WTI)が1バレル120ドルを超えて高騰した2008年、筆者はロシアで
の石油開発事業に当たっていた。当時の経験と記憶を踏まえ、サハリンプロジェクトの
始まりと1〜9の各案件を概説したい。( 石油天然ガス・金属鉱物資源機構の資料を
もとに加工、以降の地図は北海道庁の資料を加工、薄緑の箇所が対象鉱区 https://
news.yahoo.co.jp/byline/minamiryuta/20220411-00290871
もともと、「サハリンプロジェクト」の興りは古く、日露戦争時代前の間宮林蔵の頃の
領地の交渉まで遡る。江戸時代の事だが、そこまでいけば長くなるので、ソ連ができた
日露戦以降頃から行こう。サハリンを領有しての、石油・天然ガスの開発事業の歴史の
できるのは、オハ油田の掘削である。当時樺太と呼ばれたころ、シャケやマスなどの、
海産物交易が主だった。ところがその北方海産物が唯一取引しないかいガンがあった。
それは油が流れて、魚の寄り付かないオハの地だった。
2名無しさん2022/07/05(火) 18:57:29.10
 徘徊する老油田「サハリン」・・・02

 しかし、その話に、食いついた男がいた。1880年にロシア帝国ニコラエフスクの毛皮
商人イワノフである。オハ川上流で石油の大露頭を発見しイワノフは沿海州軍務知事に
鉱区探索を求める請願を出したが、翌1881年に病没した。1883年、イワノフの相続人に
鉱区が認められたが、賃貸料の負担が重く事業を断念する。その後、1886年にアレクサ
ンドロフスクの管区長リンデンバウムが樺太の探査を行い鉱区の請願を行った。これを
知ったイワノフの娘婿のグリゴリー・ゾートフが鉱区獲得に乗り出し、1889年にオハの
鉱業権を獲得して「サハリン石油工業ゾートフ組合」を設立した。ゾートフは地質調査
を行ったものの資金不足となり1893年に組合は破綻する。1906年に改めて組合を設立し
再起を図ったが、ゾートフは間もなく死去。事業を引き継いだ「サハリン石油鉱業ゾー
トフ相続人組合」が、1909年にオハで初めて湧出に成功した(ゾートフ1号井)しかし
資金不足で1914年に鉱区を没収された。1892年にロイヤル・ダッチが、ドイツ人技師の
フォードル・クレイを派遣し、ロシアで外国人の掘削が認められなかった為、クレイは
ロシアに帰化して、ヌトウォほかの試掘権を得た。ロイヤル・ダッチは採掘困難と判断
し撤退し、クレイは事業を継続。1902年にロンドンで「サハリン・アムール鉱山工業の
シンジケート」を作り、1908年に天津で「支那石油会社」を設立した。が資金不足とな
り、1912年にクレイが死んだ後に、事業を継いだ彼の息子も1914年に税金滞納で鉱区を
没収された。しかしこれは樺太北部オハでの話である。その後、日露交渉で樺太の半分
を領有した日本は、境界線上の近くに、油井を掘って成功した。。日ソ基本条約に基き
日本が北樺太の石油利権を獲得した後の1926年(大正15年)に設立され、北樺太東海岸
のオハ(奥端、奥哈)のオハ油田(奥端油田、奥哈油田)、カタングリ(ロシア語版)
(潟畔、片栗)のカタングリ油田(潟畔油田、片栗油田)を中心に採掘を行った。
3名無しさん2022/07/05(火) 18:57:47.41
 徘徊する老油田「サハリン」・・・03

 当時、艦船の燃料に石炭を使用していた日本海軍は、20世紀に入ると重油への移行を
進めた。日露戦争末期の1905年(明治38年)に樺太を占領した際には、海軍は西海岸の
石炭を調査したものの石油については積極的に調査を行わなかった。しかし、その後、
1908年(明治41年)に石炭・重油混焼の巡洋戦艦「生駒」を建造し、八八艦隊計画では
重油を主燃料、石炭を従とするなど、石油資源への関心を高めた。1912年(明治45年)
、クレイの支那石油会社から、日本での販売権を打診されていた松昌洋行の山本唯三郎
が、インターナショナル石油顧問の石川貞治に依頼し、海軍の便宜を受けて現地調査を
実施した。北樺太油田は新潟や北海道の油田より優れているとの報告書を作成するが、
日本企業は関心を示さなかった。石川は 1916年(大正5年)に桜井彦一郎、大隈信常、
押川方義らを通じて大隈重信に働きかけ、海軍に1万円の助成金を要望したが断られて
いる。同年、桜井はロシアに行き、北樺太油田の日露共同開発の内諾を得て、久原鉱業
の久原房之助の後援を得ることになった。が、1917年(大正6年)の ロシア革命勃発に
より中断した。その後も、桜井は活動を続け、1917年10月にウラジオストクへ行って、
北樺太西岸で炭鉱経営を行っていたイワン・スタヘーエフ商会を紹介される。同社は、
セカンド・サガレン・シンジケートとロシア極東工業の利権が1918年までに、消滅する
ことに着目して、支配人バトゥーインを日本へ派遣し、大隈重信に日露合弁の石油会社
設立を打診した。大隈は久原房之助を紹介し、1918年に久原鉱業とスタヘーエフ商会の
間で合弁契約が締結され同年、久原鉱業は北樺太に調査隊を送り、北樺太油田が有望で
あるとの結果を得た。が、オムスクの臨時全ロシア政府はなかなか許可しなかったので
ある。なお海軍も1918年に宮本雄助機関中佐を北樺太に派遣している。宮本は日本人と
して初めてオハ油田の調査を行い、有望との報告を行った。この間、日本以外の、英米
資本も極東ロシアでの利権獲得に向けて行動していた。日本政府は1919年(大正8年)
に北樺太の油田・炭田開発について、日露合弁で進め他国を排除し、国内企業の協同を
図ることと政府援助の検討を閣議決定した
4名無しさん2022/07/05(火) 18:58:09.90
  徘徊する老油田「サハリン」・・・04

。そして、従前から広く民間企業を集め事業を進める方針を打ち出していた海軍の働き
かけにより、5月1日、久原鉱業、三菱商事、大倉商事、日本石油、宝田石油の5社が、
石油開発シンジケート「北辰会」を設立し、久原とスタヘーエフ商会の契約を引き継い
だ。北辰会は、スタヘーエフ商会に鉱区出願が未許可であったものの、別途ロシア官憲
の了解を得て、試掘作業に着手する。しかし、1920年(大正9年)にニコラエフスクで
赤軍パルチザンに日本人が虐殺される尼港事件が発生した。北辰会の作業地バターシン
(ボアタシン)にも凍り付いた海を渡って、パルチザンが襲来するおそれが生ずると、
北辰会は作業を中止し、徒歩で1ヶ月かけて南樺太の散江へ撤退した。同年8月、日本
軍は同事件の賠償を、将来正当な政府が行うまでの「保障」として北樺太を軍事占領し
、油田へ守備隊を派遣し北樺太に軍政を敷いた。日本政府は、9月28日に北樺太の油田
・炭田開発方針を閣議決定し、海軍の指導監督下で北辰会は作業を再開した。1922年に
(大正11年)、北辰会に三井鉱山と鈴木商店が加わり、「株式会社北辰会」へ改組し、
日本石油の橋本圭三郎が会長に就任した。北辰会は各地で地質調査と試掘を行い、1923
年(大正12年)にオハで採油に成功。翌年に海軍は、初めて日本へ原油5,440トンを、
搬入するに至ったのだ。誕生したばかりのソ連は第一次世界大戦とロシア内戦により、
荒廃を極め、国家を復興するため、1920年11月に「コンセッションの一般的な経済的・
法的条件」を布告。外国資本への利権供与(コンセッション方式)で、天然資源開発な
どを進める方針を打ち出し、アメリカ合衆国の 新興企業である「シンクレア石油会社
」は、樺太・シベリア・中国での、油田開発を目的に合弁企業の設立を日本に持ちかけ
た。この提案に対し、鈴木商店が関心を示したが、海外資本の参入を避けたい日本政府
は消極的な態度をとった。このためシンクレア石油は極東共和国に接近していき、1922
年1月に北樺太油田の調査権・採掘権・販売権について仮契約を締結。極東共和国が、
ソ連に併合された後、シンクレア石油は1923年11月にソ連と利権の仮協定を締結し樺太
へ油田調査隊を派遣しようとした。
5名無しさん2022/07/05(火) 18:58:37.11
  徘徊する老油田「サハリン」・・・05

 しかし、日本政府は同年4月24日の閣議で、シンクレア石油とソ連の契約を認めず、
かつシンクレア石油の北樺太調査を拒否すると決定しており、調査を妨害した。ハリー
・フォード・シンクレア社長は、アメリカ政府の支援を得ようと国務省に働きかけたが
、スタンダード・オイル寄りで、対ソ交渉ではコーカサスの石油利権獲得に重点を置い
ていたチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ国務長官は協力せず、さらにシンクレア社長
が贈賄疑惑(ティーポット・ドーム事件)の発覚によって信用を失ったため、日本との
利権獲得競争に敗北。最終的に1925年2月、ソ連最高国民経済会議で シンクレア石油の
利権契約の解消が承認された。1921年以来、日ソ両国は、日本軍の北樺太からの撤退と
ソ連政府の承認、尼港事件の解決に関して交渉を重ねた。が、北樺太の資源利権も論点
となっていた。1922年9月、極東共和国との間で開催された長春会議をしたが決裂した
。この後に、日露協会会頭を務め、日ソ国交樹立を目指していた後藤新平東京市長は、
加藤友三郎総理大臣の了解を得て、1923年2月にソ連駐華全権代表アドリフ・ヨッフェ
を病気療養の名目で日本へ招いた。そして、後藤とヨッフェが私的会談を行った後に、
6〜7月にかけヨッフェと帰国中の駐ポーランド公使川上俊彦の間で、非公式予備協議
が行われた。本協議で、北樺太全域の日本への売却も議論されたが、売却価格を日本は
1億5千万円、ソ連は15億ルーブル(当時の15億円)と10倍の開きがあり、それぞれの
主張で、折り合わなかった。しかし北樺太利権の供与は、ほぼ合意に至り、価格のみを
残したものになっていた。続いて1924年5月から駐華公使芳澤謙吉と、ソ連代表レフ・
カラハンとの間で北京会議が行われた。日本に認める油田権益比率について、日本が60
%、ソ連が40%を主張し対立した。日本海軍は同時に交渉していた北樺太西海岸の炭田
権益を放棄しても油田権益60%の確保を主張したが、50%とする外務省案で妥協。ソ連
はなおも45%を主張したが、レーニン没後1周年までに条約締結を目指す意向から日本
案の50%権益移譲で妥結した。
6名無しさん2022/07/05(火) 18:58:56.26
  徘徊する老油田「サハリン」・・・06

 北樺太のオホーツク海側で最初に開発されたオハ油田だった。日本がシベリア出兵の
保障占領中に生産を開始し、日ソ基本条約により施政権がソビエト連邦に返還された後
も日本が採掘権を維持した。しかしソ連側は、人員や物資の出入りを制限する。などの
操業妨害をしばしば行ったことで、日本にとっての経済価値や戦略価値はあまり大きく
なかった。その後1941年に日ソ中立条約締結の条件としてソ連に返還されることになる
。第二次世界大戦の後に、1961年にはサハリン州全体で 168万トンの石油が生産されて
いくのだが。1970年代には年間約250万トン程度の石油が生産されていたとも言われる。
現在は、採掘量が減少し、生産はほとんど行われていない。事実上廃鉱と言える。が、
これに対し、埋蔵量が減少したのではなく、老朽化した施設を、更新することによって
生産量を回復させることができるとの見方もある。しかし実際には、より生産性の高い
サハリンプロジェクトの進行によって、このような意見は、ガス生産に傾き顧みられて
いない。これが1960年代までぐらいの遡った話だ。戦後経団連は、政府と共に善隣友好
政策を取って、旧日本の大日本帝国の領土となったところの、生活の底上げを基準に、
投資政策を行った。それは西洋列強に劣る生活が、植民地政策と選民思想の白豪主義で
搾取され続けた社会の、痛烈な現実からだった。1970年代に和平闘争が世界各地で
若者中心に起こっていたが、それでも、日本の経営者や政府を動かす大人は、米国バス
停やトイレに至るまで、人種差別に覆われている社会の実像を目の当たりにして営業を
行っていたのである。旧ソ連側との国家プロジェクトの組成などを目的として1965年に
立ち上げた貿易・投資の窓口機関「日ソ経済委員会」(現日本ロシア経済委員会)は、
次々と大型案件の実現に動いて、入札を広げていた。冷戦の中での経済闘争で、日本も
特別有色人種の地位で 白人の資本主義企業と共に、肩を並べて入札に参加させていた
7名無しさん2022/07/05(火) 18:59:17.20
  徘徊する老油田「サハリン」・・・07

 ソ連への外資参入が規制されるなかで、日本側は、資金や技術を提供する形で、石炭
や木材など種々の資源開発が行われた。サハリンでの石油開発事業もその一つだった。
サハリン島の陸棚に賦存していた、つまり、眠っていると目される 莫大な石油資源の
探鉱・開発に向け、1972年に両者の間で具体的な協議が始まった。提案を受け、日本側
では、1974年に開発の実施主体となる半官半民の会社が設立された。これが「サハリン
石油開発協力機構」である。通称「旧SODECO」(ソデコ)だ。1975年に同社と、ソ連の
外国貿易省との間で、探鉱・開発・生産と日本への生産物供給に関する基本契約が結ば
れた。しかし、この事業が日の目を見るのは、四半世紀以上先のこととなった。この間
、日本側にとっての成果は捗々しくなかったし、何よりも日露間の領土問題が動かなく
なってしまった元凶に「ダレスの恫喝」がある。ダレスの恫喝は1956年に、日本の重光
葵外相と米国務長官のジョン・フォスター・ダレスが会談した際に、ダレスは沖縄返還
の条件として「北方四島の一括返還」をソ連に求めるように重光に迫った事柄だ。東西
冷戦下、領土問題が進展して日ソ和平までに2島返還、更に締結後2島返還して、見返
りに極東に経済投資する。と約束され、国交回復を56年10月に調印、日ソ共同宣言で、
なされた。この共同宣言に日ソが引き続き平和条約の締結交渉を行い、条約締結後に、
歯舞、色丹の二島を引き渡すと明記されて第一歩となる予定だった。ところが日ソ接近
することを、アメリカは強く警戒して内政干渉を強くする。一方、ソ連側は、日本との
協働を通じ、「西側」欧米メジャーの開発技術の移転という実利を得たいとしていた。
ソ連の真の狙いはそこにあった。
8名無しさん2022/07/05(火) 18:59:34.36
  徘徊する老油田「サハリン」・・・08

 ここで、四半世紀は、無為に過ぎたわけではなく、開発・生産に見合う埋蔵量は確認
されていた。物探(物理探査)船による調査や試掘を経て、発見された油ガス田がサハ
リン1、2のプロジェクトへとつながっていくこととなった。しかし、ここで中国が、
登場する。サハリン1でソ連時代に、どの程度石油が採掘できそうかを確かめるための
「評価井」の掘削まで進んだものの、この日ソ共同探鉱は1980年代に幕を閉じ、その時
の試掘企業を取り込んで、東シナ海の海洋ガス田の開発を得たのである。その後1991年
のソ連崩壊のどさくさを経て、中古となった掘削機器や人員の囲い込みを行ったのであ
る。その後、ロシアで外資の本格参入が認められるようになり、立ち消えになっていた
ソ連時代のプロジェクトが再始動することとなると、この海洋ガス田で大赤字の中国の
国営ガスが資金を持ち、大連のLNGに関し、「中国海洋石油有限公司:CNOOC Ltd)」
は、中国政府とLNGを所管し、同地域周辺で、遼河油田を所有し活況にペトロチャイ
ナとの(CNPC)との間で、主導権争いが展開されていくのである。日ソの共同事業も、
旧来からのコンソーシアムの顔ぶれは変わることとなった。外資側はエクソンモービル
が1993年に参画し、日本勢と同じ30%の権益比率を保有し、日本勢は、ソ連に「協力」
する立場だった旧SODECOから、「協力」の名を取った「サハリン石油開発」としての再
出発するのだ。サハリン石油開発の 株主は伊藤忠商事、石油資源開発、丸紅、INPEX、
そして独立行政法人の石油天然ガス・金属鉱物資源機構が連なった。1995年、ロシアに
おける生産分与(PS; Production Sharing)の法を制定させ、それに基づき、1996年に
ようやく開発プロジェクトのPS契約が発効となった。現場試掘権利を買った値段で、
現場政府は試掘拠出金とし、試掘しての販売利益を企業側の実益とする形だ。本格稼働
であれば、更に新たに契約を交わすのである。
9名無しさん2022/07/06(水) 11:53:11.66
  徘徊する老油田「サハリン」・・・09

 エクソンがオペレーター(操業主体)として事業を先導し、ソ連時代に発見されてい
た「チャイボ」と「オドプト」の油ガス田に加え、「アルクトン・ダギ」が対象鉱区と
なった。これが「サハリン1」と総称されるようになったプロジェクトだ。2001年に、
商業化に移行し、2005年に原油、2008年に天然ガスの生産がそれぞれ始まった。権益は
、エクソンと日本勢の各30%のほか、サハリンモルネフテガス(SMNG)が11.5%、
ロシア最大の、国営石油会社ロスネフチが8.5%とロシア勢が計20%、そして インドの
ONGCが20%という比率になっている。しかしながら、ウクライナ侵攻を受け、エクソン
が同事業からの撤退を決めたのは周知の通りだ。サハリン2は、ロシア初のLNG事業
として発足した。同じく日ソ間で1970年代以降に進められた共同探鉱により見つかった
「ルンスコエ」と「ピルトン・アストフスコエ」の構造は、ソ連独自に 継続した調査を
経て、「サハリン2」として引き継がれた。この国営石油が参画したサハリン1に対し
、サハリン2は世界最大のガス企業の、ロシア国営のガスプロムが権益の過半を持つ事
に至った。外資は、ロイヤル・ダッチ・シェルと三井物産、三菱商事の3社が参画する
。ロシア初のLNG(液化天然ガス)事業であり、1999年に生産が始まった。当初は、
シェルが55%、三井物産が25%、三菱商事が20%ずつ出資するプロジェクトで、新会社
「サハリンエナジー」による外資単独の事業だったのだ。しかし、ロシア政府から環境
アセスメントの不備を理由に、サハリン2の開発中止を命じた。その後、各社が折衝し
、ガスプロムがサハリンエナジーの株式の50%+1株を取得する形での参画が決まって
、外資3社の株式は半減した。しかし今回シェルもエクソンと同様、ウクライナ侵攻後
に事業撤退を決めている。
10名無しさん2022/07/06(水) 11:53:33.61
  徘徊する老油田「サハリン」・・・010

 その後サハリン3以降は、同1や2に比べて、日本の関与度が低いため、あまり報道
される機会がない。ただ探査によってシェルの報告があがると、中韓が高い関心を寄せ
、東アジアの資源外交、地政学上、重要な意味を持つものになった。まず、サハリン3
は、「東オドプト」「アヤシ」「キリンスキー」「ウェーニン」の4つの鉱区から成り
、それぞれ権益の保有者が異なる。当初は鉱区のオークションで外資が落札した経緯が
ある為だ。樺太の東側に位置する海洋で、紆余曲折を経て、現在はロシアがほぼ完全に
コントロールしている状態だが、ほとんどがシェルやエクソンが採算性が悪いと投げ出
した地域である。「東オドプト」は1993年に現エクソン・モービルが落札したものの、
目立った探鉱の成果はなく、その後、2004年にPS(生産分与)対象の鉱区外となった後
、2009年にガスプロムの子会社「ガスプロムネフチ」が権益を取得した。「アヤシ」の
鉱区も1993年にエクソンが落札したが、現在はガスプロムネフチがすべての権益を持つ
。「キリンスキー」は1993年の入札でエクソンとテキサコがそれぞれ33.3%の権益比率
を保有するも、PSの対象外鉱区となり、2008年に ガスプロムが権益の100%を持つに至
った。翌2009年に試掘するなどし、2013年に生産を始めているものも内容は不明のまま
だ。「ウェーニン」には1993年の入札時に応札者が現れなかったという。旧SODECO時代
に行われた試掘の結果が芳しいものではなかった。ただ、サハリン1、2で、生産移行
の状況や掘削技術の向上を踏まえ、2000年代にはあらためて同鉱区への関心が高まった
のも確かだ。2000年代に MOU(覚書)を結んだ韓国石油公社(KNOC)や、サハリン1に
参画するONGCが関心を寄せ結局、現在はロスネフチが74.9%、残り25.1%を 中国国有の
中国石油化工(シノペック)が権益を握ることとなった。両社は2005年に探鉱事業に当
たる合弁会社を設立、2006年に試掘を行っている。
11名無しさん2022/07/06(水) 11:54:35.48
  徘徊する老油田「サハリン」・・・011

 一方、ウクライナ侵攻に伴う各国の制裁強化の動きを背景に、シノペックはロシアへ
の化学工場などへの投資協議を中断させている。しかし、私見であるが極寒の嵐の海は
おそらく割に合わないとしてるのだろう。サハリン4・5は、少し北上したところで、
更に厳しく英BPが権益を持っていたが撤退した。サハリン4には「アストラハン」と
「シュミット」の2鉱区があり、ロスネフチが51%、英BP(British Petroleum)が
49%の権益を持っていた。ただ、2000年代に試掘の不成功などを踏まえ、BPは、撤退
している。樺太の最北端の海洋上で、海さえ凍り付くので、嵐に氷が飛んできて損傷も
あるようだ。「東シュミット」(カイガンスキー・ ヴァシュカンスキー)を 対象鉱区
とするサハリン5の権益比率は、サハリン4と同様、ロスネフチが51%、BPが49%だっ
た。1998年にロシア側51%、BP49%の出資比率で「エルヴァリ・ネフテガス」を設立、
その後に同社がライセンスを取得した。2004年に最初の試掘を実施、相応の石油・ガス
が発見されてはいる。しかし、その後の探鉱結果を踏まえ、商業性が見いだせない。と
して、2012年にBPは撤退を決めた。サハリン4、5はいずれも、国際石油資本・BPの
持つ高度な技術の導入を図りたいという思惑があったものと見受けられる。サハリン6
は1998年に始動している。サハリン6や7は、南下した場所だ。陸と海にかかる「ポグ
ラニーチヌイ」鉱区が対象で、1998年に始動した。現在ペトロサハとサハリン州政府が
それぞれ97%と3%を保有し、2005年には油兆が確認されている。サハリン大陸棚の中
では最大の鉱区とされ、場所も南部となる。サハリン7〜9は、外周を回った形で、島
の南部だが、探査も試掘も目立った動きはない。このほかサハリン7は、サハリン南部
〜南東部の陸棚、サハリン8は同南西部沿岸付近など、サハリン9までは、取りあえず
鉱区が設定されて今のところ顕著な成果は見られていないのが実情なのだろう。
12名無しさん2022/07/06(水) 11:55:09.40
  徘徊する老油田「サハリン」・・・012

 新聞のビジネス欄は大抵、戦争の騒乱ではなく、企業間の熾烈な競争を取り上げる。
ウクライナの国家主権に対するウラジーミル・プーチンの攻撃について、そのど真ん中
にとある企業が鎮座している。世界最大のガス生産会社ガスプロムだ。このガスプロム
の日本カードで日本は大慌てしている。もともとガスフロムは出資比率にして4分の1
しかなかった。ガスプロムの前身は、1989年にソビエト連邦ガス工業省と石油工業省が
統合される際、8月8日付けで旧ガス工業省の企業が改組されガスプロム・コンツェルン
として成立した。この一連の作業を主導したのが、ガス工業相であった ヴィクトル・
チェルノムイルジン(後の首相)であった。ガスプロムは、分割・解体化される見通し
であったが、ユコスの原油問題も絡み、ロシア政府は、ガスプロムも含んでエネルギー
産業界の再編へと動く。2004年12月、ガスプロムは、国営石油会社のロスネフチを吸収
合併し政府が株式を半分以上を持つ民間となった。2005年、ガスプロムは、ロシア石油
精製大手のシブネフチの株式72.663%を130億1000万ドルで取得した。この企業買収劇は
、ロシア史上最大の合併買収であった。こうしてシブネフチはガスプロム傘下となった
。ソ連の崩壊後は、プラウダが軟派な路線に傾きつつあるのに対して、ウラジーミル・
プーチン大統領について批判的な最後の主要な新聞であったが、2005年6月3日に政府に
よって保有されていた企業であるガスプロムによって買収された。ロシア政府が過半数
の株式を保有するに至った、ガスプロムは、その後自社の商業的な利益を増やすと同時
にクレムリンの利益獲得も促進する芸当を会得している。その技は、合図があるまで、
欧州へのガス供給を絞り込むことにも発揮されている。
13名無しさん2022/07/06(水) 12:01:21.29
  徘徊する老油田「サハリン」・・・013

 ロシアが ウクライナに行った戦争挑発行為の報復として、ガスプロムは所有の天然
ガスパイプライン「ノルドストリーム2」の事業を無期限停止する。とドイツが表明し
た。が、その2日後に、ロシアはウクライナ侵攻に踏み切った。こうした大きな出来事
が2つあっても、ガスプロムは問題を引き起こし、金もうけも上納みやめてはいない。
この冷戦から生まれた、オルガルヒの巨大企業のビジネスモデル、ガスプロムを理解す
るには、同社が1989年に旧ソビエト連邦のガス産業省を母体に作られた、冷戦の所産で
あることを思い出さねばならない。最高経営責任者のアレクセイ・ミレル氏は、2001年
からずっとその地位にある。プーチン氏が権力を手に入れた翌年に強奪した地位である
。この2人はよく似ている。2018年に、米国から制裁を科された時、ミレル氏は「つい
に私も制裁の対象になった。我々が万事きちんとやっている証拠だ」と述べたほどだ。
目を見張る程、配当利回りに引かれて、ガスプロム株を買う西側の投資家は、同社には
、株主経営ではなく、国家主導の利益になるプロジェクトに散財していると嘆いている
。世界で2番目に高い超高層ビルをサンクトペテルブルクに建設する計画はその好例だ
ろう。政治と商業の混同については、同社のビジネスモデルは、ロシア国内向けのガス
料金を低く抑えるために、パイプライン経由の天然ガス輸出という高採算事業で認めら
れた独占に依存して、発展戦略としているのは確かだろう。冬になれば何もかも凍り付
く北欧地方だけにプーチンにとっての、この見返りの権限は貴重なガスプロムに財源で
ある。ウクライナの戦争に至る過程で、ガスプロムが政府の利益に寄与しつつ自らの懐
を潤わせる手法がハイブリッド戦争となった。同社は、天然ガスの重要な中継ルートに
なっているウクライナを迂回しようと何年も前から努力を重ね、ついに欧州北部と南部
への代替パイプラインを建設するに至っていたのだ。東ドイツ出身のメルケルは友好の
指針として奨励し、友好や交流が深まることで専制主義が消えると確信していた。
14名無しさん2022/07/09(土) 13:22:00.84
  徘徊する老油田「サハリン」・・・014

 2024年にウクライナと契約が期限を迎えて、強力な交渉力を手に入れる。新パイプラ
インによって、ここで得をする国と損をする国が互いに反目し合う。数ヶ月、欧州での
需要が急増し、余ったガスのごく一部しか送らなかったガスプロムの判断は、商業的に
は理にかなう営業だった。結果、スポット価格の上昇が同社に記録的な利益をもたらし
、この行動にメッセージ性もあった。欧州は、ガスプロムの存在を、当然無視するべき
ではない、ということの誇示だ。この事は、サハリン計画でも起こって。2005年7月7日
ガスプロムのアレクセイ・ミラーとシェルのイェルーン・ヴァン・デル・ヴェールは、
ロンドン会合で、サハリン2の株となる25パーセント+1株と、ガスプロムの操業する
 西シベリアのザポリヤルノエガス田の白亜系ネオコム層での権益50%を交換する。と
両社長、会長は合意したと発表する。(各紙2005/7/8)。サハリン2の埋蔵量は、天然
ガスでは 5,000億立方m(17.7兆立方m)、石油11億バレル(1.5億トン)と、Interfax
公表だが、(2005/12/14) 一方で、ザポリヤルノエガス田は、全体では 128兆立方フィ
ートと世界第7位の桁違いの超巨大ガス田だ。しかし、今回、交換の対象の深部のネオ
コム層について見ると、天然ガス量は 7,350億立方メートル(26兆立方フィート)と一
桁低い。コンデンセート1.33億トン、石油10億バレル (NC, 2005/7/14)では、サハリンの
25%と ザポリヤルノエの50%を比較しても、数量的にガス、石油( コンデンセートを
含めて)ともにザポリヤルノエがサハリン2の3倍前後しかない。開発・輸送コストを
考慮し近場なので直接に比較は出来ないが、従来の、資産相対評価で比較すると、ガス
プロムのサハリン2に保有可能な比率は22%で、それだけに、シェル側の大幅な譲歩で
あるる。一方でシェルは昨年1月、自社全体の埋蔵量の20%に当たる39億バレルの石油
換算分を、下方修正し大ダメージを受けている。この時経営上、素早い埋蔵量の増加が
求められる状況にもあり、上記のザポリヤルノエ・ガス田のネオコム統の埋蔵量が追加
され、かなりの改善となるとも踏んだのだろう。と推測する。
15名無しさん2022/07/09(土) 13:22:22.90
  徘徊する老油田「サハリン」・・・0115

 シェルは、これまで西シベリアのサリム(Salym)油田 等、メジャーとしてはロシア
において、比較的小規模な事業展開にとどまっていた。旧ロシア帝国時代のイギリスと
の確執や、接収事故からの教訓があるからだ。しかし、サハリン事業では大規模な事業
に取り組むチャンスを得て、ガスプロムと共同出資に、サハリン2へ参加することで、
同鉱区でのシェルの販路拡大を進め、LNG技術にもアクセスすることが可能な状況を
得る事になった。基本的に、サハリンプロジェクトは1〜8まで、サハリンの探掘地域
を分けて存在する。まずサハリン1は、当初は、日本がガスのパイプラインを完成させ
積出しの港湾建設のみを残した形で接収されてしまった。この時には不可解な自然破壊
の難癖をつけられ手放している。その後の入札で、中国のシノバック石油が入札で権限
を取るが、そのまま離脱、合同出資のオペレーターであるエクソンネフチガスの親会社
に預けてしまって、ロシアから中国へのパイプライン事業を行うことになった。つまり
探査と採掘が終わった時点で、ロシアが接収して中国へパイプラインで送ろうと計画し
たもののその事業の採算割れに中国は投資をやめたのだ。しかし、ロシア側の石油会社
ネフチガスでは、フェーズ1で1万3,000人の直接、間接の雇用が生み出される。として
ロシア政府の援助を得ている。確かに処理施設がラグーンを越えた内陸に建設されて、
デカストリの輸出ターミナルまでのパイプラインで原油が輸送されるが、これにも陸地
を通す計画だ。。フェーズ2としては、当初計画は日本に対し、パイプライン輸出用の
天然ガス開発を目指していたが、ガス販売市場の開拓に時間を要している。また、中国
に対するガス輸出の交渉も行われて、一方で中国の食指に乗った形となりエクソンネフ
チガスとしても、日本市場へのアクセスの意志は捨てていないようだ。

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