1名無しさん2021/10/08(金) 18:33:19.54
あいうえお
50名無しさん2022/06/17(金) 15:11:50.54
 ジャパン レボリューション。204、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 実頼死後のことであったが、決めたのは景勝の後を継いだ上杉定勝に、これが実行さ
れたのであった。景勝と正室菊姫との間に子ができず、側室の子であったが、側室も又
すぐに亡くなってしまった為、養育は兼続の妻であるお船の方が引き受けていた。その
為お船を母と慕う定勝が、その夫兼続の願いを形にした。のである。指名された秀兼の
嫡男は、光頼と名を改め、以後は上杉家に欠かせない重臣として幕末まで存続した。と
される。一方で秀兼には、もう1人息子がいた。長兼という次男がいたのである。光頼
の大国家相続に伴い、長兼が秀兼の後を継いだ。樋口家も、上士平侍の上田衆の一角と
して重きを成し、幕末まで存続している。自身の後継に恵まれなかった兼続であったが
、甥でもある秀兼の2人の息子に、その未来を託したのであろう。実頼が上述の「暴挙」
に出た時を除くと、樋口家の三兄弟、つまりは与六・与七・与八の仲は、決して悪くな
かったと言われる。ドラマでは、直江の家は自らの手で断絶させることは紹介されたが
、樋口家や大国家のその後は描かれてはいない。そうした意図もあったと思うが、今に
して思えば、「もう1人の弟」である樋口秀兼をもう少しクローズアップしてほしかった
とも思う。だから、正確に書いてあれば、この樋口惣右衛門の名は、少し引っ掛かって
しまう。「原因が、浪人・樋口惣右衛門による放火で、惣右衛門が発狂して、自宅の2
階の障子に火をつけ、さらに隣家の屋根に投げつけて発火させた。」とある中で。まず
は自宅が、借家でも間借りでもなく、自宅であって、浪人だった点と、その後此の地区
の差配が樋口家が行い、佐賀藩領地として初代藩主鍋島勝茂と繋がっていた点である。
知っての通り、初代藩主鍋島勝茂時代まで、佐賀藩は鍋島の物でなく、大きくは龍造寺
家のものとして、武雄や蓮池、諸富や牛津や三日月・小城氏川上氏といった旧武将が、
鍋島氏の家臣であったが、領主を許していない状態にあったのだ。つまり、単なる佐賀
連合体であって、かなりの反発の下で黒猫化け猫騒動あった時代で、藩内藩があった。
51名無しさん2022/06/17(金) 15:50:10.18
 ジャパン レボリューション。205、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 「寛文3年(1663年)03月08日の巳の刻(午前10時から正午)に、筑後町で火災が発生」
というのも気にかかる。少し前の1657年(明暦3年)には、江戸で明暦の大火が発生し
ていて、当時の江戸の大半が消失した事件が起こっている。世界三大大火の一つとされ
大いに大騒ぎであったはずだ。更にこの年に、有珠山の大噴火と普賢岳火山の有史噴火
活動が認められている。1663年(寛文3年)の噴火では,普賢岳の北東部の妙見岳崩壊
壁のすぐ内側から古焼溶岩(安山岩)が噴出し、北へ1km流下した。と言われている。
この溶岩は、雲仙火山の岩石の中では「SiO2含有量が少なくかんらん石斑晶」を含んだ
軽い白砂が特徴的と言う。その翌年に、九十九島池(火口)から出水し,水無川河口の
安徳で氾濫し30余名が死亡した。その後1792年(寛政4年)も噴火し、前年11月から、
半島西部の小浜付近で群発地震が始まっている。1792年1月に地獄跡火口から、噴煙を
あげ2月に、普賢岳北東側から新焼溶岩が噴出。4月には溶岩流の長さは2kmに達して
たいる。4月の終わりに島原付近で地震が頻発し、地割れが生じ、5月21日の激震により
島原市街地背後の眉山が崩壊。岩屑なだれが市街地を襲い島原湾に突入した。この眉山
岩屑なだれ堆積物により海岸線は長さ4km幅1kmにわたって埋め立てられ,大小無数の
小島(九十九島)ができた.これにより津波が対岸の肥後を襲い、島原の被害者と合わ
せて死者・行方不明者およそ15,000人というわが国最大の火山災害となった。大惨事は
、1792年に島原大変肥後迷惑といわれたが、1663年(寛文3年)の噴火でも被害は少な
くなかったはずだ。溶岩流の長さが1kmで1792年の2kmに及ばないものの恐らくは
死人もでている。寛文3年(1663年)は、徳川4代将軍家綱の時代で、寛永18年(1641)、
3代将軍家光の長男として江戸城に生まれた。正保2年(1645)に元服、慶安2年(1651)に
父・家光の死去に伴い11歳の幼さで4代将軍に就任した。家綱の将軍の後の家綱が養子
として迎えたのが、館林藩藩主徳川綱吉で御犬様で有名な強烈なキャラクターに埋もれ
るが、実はこの頃、由井正雪の乱が起こるなど政情不安が多く在って、家督騒動時代で
もあった。
52名無しさん2022/06/17(金) 16:05:34.26
 ジャパン レボリューション。206、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 徳川4代将軍家綱は、家光の異母弟で叔父に当たる会津藩主・保科正之の後ろ盾が、
大老・酒井忠勝ら有能な重臣と共に健在だった。そうした 重臣たちの補佐の下、幕政
を武断政治から文治政治へと大きく変革し、幕藩体制を確立させた。文治政治に大きく
舵を切って法の下の統治を完成させると言う名将軍だ。儒教要素を強く取り入れ武士道
を基盤とする政治で、小藩や、経営に危険な藩は、多くがお取り潰しにあい保科や酒井
は、由井正雪事件が、不平浪人発生の原因が大名の改易にあるとも認めていた。寛文3
年(1663)5月23日に、武家諸法度を改正した寛文令を発した。大名の人質を取る 証人制
の禁止、そして、殉死の禁止などが、寛文令には盛り込まれていた。1630年、松倉重政
は、ルソン島侵略を幕府に申し出ている。将軍家光は、マニラへの日本軍の派遣を確約
は控えたが、重政に調査を認め、軍備を整えることを許した。1630年、重政は長崎奉行
・竹中重義の協力を得、吉岡九郎右衛門と木村権之丞という二人の家来をマニラに送り
、スペインの守備を探っている。商人に変装し、貿易の発展についての話し合いを口実
として、ルソン島に渡航。それぞれ10人の足軽を従えていた。が、嵐の中の帰路、部下
は10名とも死亡した、その後重政は、圧政で、島原の乱を起こさせた。江戸時代初期に
起こった江戸幕府のキリシタン弾圧に対する反乱とされた。日本の歴史上最大規模の、
一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。天草の乱、天草一揆と呼ばれた
。寛永14年10月25日1637年12月11日勃発、1638年04月12日終結とされている。実はこの
時の大火が、筑後町で火災が発生した。と言うのも気にかかる。この重政は天草のキリ
スタン弾圧前には、筑後で非情な事を行っている。関ヶ原の戦いで、柳川を後にし立花
氏は蟄居するがその後に入った田中吉政時代実は立花氏の領地の半分も無かった。更に
久留米城島は有富氏が立ち退かない中にあったからだ。差配の役人として殆どの久留米
や英彦山或いは宮家の神領地に、強制取り立てに行った。
53名無しさん2022/06/17(金) 16:06:01.17
当然、領民は寺社・新領主・
差配人と3重の取り立てなっての取り立てである。この後田中氏の跡継ぎがなく立花氏
は帰還するが、更に立花氏まで米を送っていた。
54名無しさん2022/06/17(金) 16:06:27.67
 ジャパン レボリューション。207、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 天草四郎の本名は益田四郎とされる。父親は益田甚兵衛といい、父もまたキリシタン
で、父親は秀吉の船奉行をしていた キリシタン大名小西行長の家臣で、小西家が没落
した後には、農業に従事していたといわれている。四郎は9才の頃から学問を始め長崎
に遊学に行っていた。四郎が生まれた1621年の8年前に当たる1613年には、キリスト教
禁止令が出された。この時マルコス宣教師は「25年後に神の子が出現して人々を救う」
とが予言を残したと言う。そしてちょうど25年後の1637年、四郎は数々の奇跡を起こし
たとされることから、人々は「神の子だ」と噂をするようになり、これが、ちょうど、
島原の乱が勃発した年だった。天草四郎の起こした奇跡と最期島原の乱が起きたときの
四郎は若干16才。今でいう高校1年生である。四郎が人々から支持された理由は、難破
した黒船にあったと言われる。マルコス宣教師の預言と、四郎の奇跡が運良く合致した
のでなく、西洋船が大挙してやって来る。と信じられていたからだ。戦国時代から九州
には、たびたび白人のキリスト教宣教師が来航し、布教活動を永らくしていた。有馬氏
、大村氏などの各地の大名は、藩を寄進するほどキリスト教に入れ込み、住民の間にも
瞬く間に広がり、強制的に大友時代に信者が急増していった。しかし、白人による日本
侵略を警戒した豊臣・徳川各政権によって、徐々にキリスト教は規制され、江戸時代に
なってから、完全に禁止されることになって行く。しかし、九州地方の住民の間では、
キリスト教への信仰が根強く、地元の大名はキリシタンへの徹底的な取り調べ、処罰を
繰り返した。乱の中心地域である島原・天草地方の領主であった松倉勝家や寺沢堅高は
その中で奴隷貿易の相手として人身売買に於いて火薬の仲介人だったのである。住民に
対して、過酷な年貢や税の取り立てし、税目や税率を増やし、それらを 納められない
住民を売り、抵抗の地主に火あぶりや水責めなどの拷問にかけた。このような経緯から
、住民たちの領主への恨みが増幅していった。
55名無しさん2022/06/17(金) 16:07:24.17
ジャパン レボリューション。208、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)団は、1582年(天正10年
)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としての、
日本で最も早い、ローマへ派遣された使節団で、4名の少年を中心とした使節団であっ
た。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案で、織田信長時代の使節だ。
豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなったが、1590年(天正18年)に、
帰国した。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼ら
の持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって、日本語書物の活版印刷が初めて行われて
キリシタン版と呼ばれた。この有馬氏、大村氏のキリスタン使節団によって、九州と、
キリスト教との近さは判るであろう。『天正遣欧使節記』または『遣欧使節対話録』と
して4名の少年達の生きた声として引用されている『デ・サンデ天正遣欧使節記』があ
るが、これは日本に帰国前の少年使節と、日本にいた従兄弟の対話録として著述されて
おり、両者の対話が不可能なことからヴァリニャーノ司教のフィクションとされている
。ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。第一はローマ
教皇とスペイン・ポルトガル両王に 日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
第二は、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後に、その栄光
、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたい。ということであった。
使節の少年たちは、有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨ(小中学校)で学ぶ生徒
の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13〜14歳
で中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。
56名無しさん2022/06/17(金) 16:07:43.85
使節は『伊東マンショ
(主席正使)』大友義鎮(宗麟)の名代で宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、
司祭に叙階される。1612年長崎で死去した。『千々石ミゲル(正使)』大村純忠の名代
。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟で後に棄教。『中浦ジュリアン(副使)』 後年 司祭に
叙階。1633年、長崎で穴吊るしの刑によって殉教した。2007年に福者に列せられる。『
原マルチノ(副使)』後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去した。
57名無しさん2022/06/17(金) 16:08:12.45
 ジャパン レボリューション。209、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 長崎奉行では、この火事を教訓として 道路の幅を本通り4間幅、裏通り3間幅、街
割り溝の幅を1尺5寸(=50cm程度)以上と決め、計画的に整備していく。この時
に造られた道幅は、以後も長崎の都市計画の基本となっている。1間は約1.8mなので
約2m道路、本通り4間というと7.2メートルで、8m道路となる。浜の町アーケード
の道幅を図ると、浜屋の通りは約5メートルなので裏通りの規格だとわかる。これらは
明治時代の、近代街割りの基礎資料にもなっている。しかしその後も火事は止まらない
1698年6月1日「末次火事」というのが起こっている。元禄11年(1698年)04月23日の
未明に、後興善町の乙名(おとな)である、末次七郎兵衛宅から出火。強風により大火と
なり、午後4時に鎮火するまで約12時間燃え続けた。この火事は、付近の町22町に
延焼し、家屋2044軒、土蔵33棟を焼失。被災者9832人死者男7人女1人。この他に犬
121匹、猫297匹の焼死も記録に残されている。犬猫の焼死も多数あるのが悲しい程だが
約一万人の被災者でも死者が8人であった。大火事なのに異様に人間の死者数が少ない
のが救いである。火災の後、奉行所は被災者のために緊急米が2000俵を放出している。
この火事により、長崎に入港していた唐船20隻分の荷物を収納していた土蔵18棟も全焼
した。そのため、元禄15年(1702年)に浜町の海岸沿いを埋め立てて人工島が造られ、
そこに倉庫が建設された。この倉庫は新地蔵所と呼ばれ、唐船専用の貨物倉庫となった
。この地は現在は新地町と呼ばれ、長崎の中華街となっている。まさにクラッシュ&ビ
ルドだが、この出火元の「後興善町の乙名(おとな)である、末次七郎兵衛宅から出火。
」というのも異様である。
58名無しさん2022/06/17(金) 16:08:38.92
 ジャパン レボリューション。210、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 伊藤 小左衛門(いとう こざえもん)は、江戸時代初期の福岡藩の商人である。博多
の地で2代にわたって活躍した豪商で、主に2代目小左衛門吉直(寛文7年(1667年)
初代の吉次(よしつぐ)は、福岡初代藩主黒田長政が慶長5年(1600年)に当地に転封
してきた際に、当時住んでいた木屋瀬から博多へ出て貿易商人となった人だ。吉次は、
浜口町に店を構え、同時に長崎にも出店し手広く商いをして巨万の富を築いた。という
幕府の許可を得て、伊藤小判を発行し、福岡藩の御用達まで務めた。寛永19年(1642年
)には長崎の清水寺に梵鐘寄進した。承応元年(1652年06月24日に当時の福岡藩主の、
黒田忠之が家臣を引き連れて、長崎の出島を訪問した際、家臣たちの末席に控えていた
伊藤小左衛門がオランダ商館長の注意をひいた。小左衛門が毎年1万匁の銀を使う身分
で、7000万匁以上の資本金を持つ大富豪であることを知っていたのである。商館長は、
彼が末席に居ることに驚いた。と、商館長日記に記している。ただし、この小左衛門が
初代の吉次か2代目の吉直かは不明だ。『長崎オランダ商館日記』同年9月5日条では、
トンキン向けの輸出銅銭を伊藤小左衛門と1000個41匁の契約で、10月15日までに12万匁
を受け取ることにしたという記録も残っている。近松門左衛門の、不朽の名作の「博多
小女郎浪枕」は、博多の豪商 伊藤小左衛門の悲劇に着想のヒントを得たといわれる。
「博多に本店、長崎、五島、対馬などに支店を置いて、持ち船20隻、資金8万貫を蓄え
、当時日本一と言われた大阪『鴻池』に次いでの2番目の海の財閥であった。また黒田
藩の御用商人としても、藩財政に貢献していて、伊藤の刻印がある金片は、伊藤小判と
して九州一円に広く通用した」(中村均著「日本のシャイロックたち」)と書いてある
。ここでも伊藤小左衛門と言う屋号での苗字である。吉直の時代であったろう銅銭輸入
は最高になっていたのだ。
59名無しさん2022/06/19(日) 10:58:48.30
 ジャパン レボリューション。211、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 実は、不思議な事に、先の銀山発見の博多の豪商、神屋寿禎(かみやじゅてい)の、
中国・朝鮮への主要な輸出品であった銅を入手する為に、石見地方の東隣に当たる出雲
地方に向けて、日本海の沿岸を航行していた際に、南の山に霊光を発見して銀山の存在
を知ったとされている話と、この伊藤 小左衛門(いとう こざえもん)の船が、諸富船
つまり、末次船となっているのだ。末次船は荒木船とも呼ばれ、長崎の朱印船貿易商の
荒木宗太郎が専ら使った外国貿易船で柳川風浪宮でしか作られてなかった船だったのだ
。元和五年(一六一九)安南渡海の朱印状を下付された。同八年に描かれた図によれば
、中国型ジャンクと西洋型帆船ガレウタとを折衷した構造で、蛇腹の艤装の船で同系統
のシャム船よりも、強く洋式化しアスファルトを併用した継ぎがあった。当時この種の
船をミスツイス造りとか日本前と称した大型船で。5〜700前後と推定されている。
寛文7年(1667年)、長崎浜町居住の江口伊右衛門の下人で、筑後柳川領にあった正行
村の平左衛門という者が、柳川藩の当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が
発覚した。と言われる。その訴えでは、伊右衛門が対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、
武具を朝鮮に密売した。というものであった。伊右衛門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、
牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者達が判明する。訴えをうけた藩の
留守居役により、柳川沖端町の、喜左衛門ほか9名が03月24日、26日に捕らえられてい
る。喜左衛門は、対馬の小茂田勘左衛門らと申しあわせて船頭として朝鮮に渡り、9名
の者を、水主(船長)として雇ったことが判明。兄の油屋彦右衛門(新大工町家持)の
名代として朝鮮に渡った築町の借家六右衛門は04月15日に捕らえられた。この荒木船と
言う名も、実は久留米近くに「荒木」の地名が残る。ここには鬱蒼とした森だった。が
秀吉が来て朝鮮征伐に、木を切って野原にした。と言う伝説が残っている。この時の、
この木で出来た船が荒木船という話である。
60名無しさん2022/06/19(日) 10:59:14.36
江戸時代初め,大坂の豪商末吉孫左衛門がルソン渡航などの朱印状を受けて海外貿易に
従事させた代表的な御朱印船の形で宝船の古来の形に物見用や積み込み用に、二階建て
以上のデッキを後ろに付いた形である。
61名無しさん2022/06/19(日) 18:59:45.38
 ジャパン レボリューション。212、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 末吉船は、江戸時代初め,大坂の豪商末吉孫左衛門がルソン渡航などの朱印状を受け
て海外貿易に従事させた代表的な御朱印船の形で宝船の古来の形に物見用や積み込み用
に、二階建て以上のデッキを後ろに付いた形である。寛文7年(1667年)長崎浜町居住
の江口伊右衛門の下人で、筑後柳川領にあった正行村の平左衛門という者が、柳川藩の
当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が発覚した。その訴えは、伊右衛門が
対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、武具を朝鮮に密売したというものであった。伊右衛
門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者
達が判明した。訴えをうけた藩留守居役により、柳川沖端町の喜左衛門ほか9名が3月24
日、26日に捕らえられた。喜左衛門は、対馬の小茂田勘左衛門らと申しあわせて船頭と
して朝鮮に渡り、9名の者を水主として雇ったことが判明。兄の油屋彦右衛門(新大工
町家持)の名代として 朝鮮に渡った築町の借家六右衛門は04月15日に捕らえられた。
密貿易組織の「張本(ちょうほん)」とみなされた伊藤小左衛門は、06月25日に長崎の
水之浦で福岡藩士に捕らえられ、五島町へ預けられた。25日には長崎の浜町 乙名浅見
七左衛門が捕らえられた。主犯格の1人で油屋彦右衛門、築町の塩屋太兵衛、炉粕町の
中尾弥次兵衛、そして対馬の小茂田勘左衛門、亀岡平右衛門、扇角右衛門、さらに福岡
領の高木惣十郎、篠崎伝右衛門、前野孫右衛門、唐津藩の今村半左衛門、島原領日見村
の加兵衛、小浜村の利兵衛、熊本藩八代の九郎左衛門、大坂の仁兵衛・長兵衛・庄左衛門
のほか、宮崎や唐津、久留米などから「同類」が摘発され、94人が取り調べを受けた
62名無しさん2022/06/19(日) 19:05:28.36
 ジャパン レボリューション。212、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 末吉船は、江戸時代初め,大坂の豪商末吉孫左衛門がルソン渡航などの朱印状を受け
て海外貿易に従事させた代表的な御朱印船の形で宝船の古来の形に物見用や積み込み用
に、二階建て以上のデッキを後ろに付いた形である。寛文7年(1667年)長崎浜町居住
の江口伊右衛門の下人で、筑後柳川領にあった正行村の平左衛門という者が、柳川藩の
当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が発覚した。その訴えは、伊右衛門が
対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、武具を朝鮮に密売したというものであった。伊右衛
門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者
達が判明した。訴えをうけた藩留守居役により、柳川沖端町の喜左衛門ほか9名が3月24
日、26日に捕らえられた。喜左衛門は、対馬の小茂田勘左衛門らと申しあわせて船頭と
して朝鮮に渡り、9名の者を水主として雇ったことが判明。兄の油屋彦右衛門(新大工
町家持)の名代として 朝鮮に渡った築町の借家六右衛門は04月15日に捕らえられた。
密貿易組織の「張本(ちょうほん)」とみなされた伊藤小左衛門は、06月25日に長崎の
水之浦で福岡藩士に捕らえられ、五島町へ預けられた。25日には長崎の浜町 乙名浅見
七左衛門が捕らえられた。主犯格の1人で油屋彦右衛門、築町の塩屋太兵衛、炉粕町の
中尾弥次兵衛、そして対馬の小茂田勘左衛門、亀岡平右衛門、扇角右衛門、さらに福岡
領の高木惣十郎、篠崎伝右衛門、前野孫右衛門、唐津藩の今村半左衛門、島原領日見村
の加兵衛、小浜村の利兵衛、熊本藩八代の九郎左衛門、大坂の仁兵衛・長兵衛・庄左衛門
のほか、宮崎や唐津、久留米などから「同類」が摘発され、94人が取り調べを受けた。
つまり、九州勢の貿易商の追い落としが起ったのである。何故か。家康は、このイスパ
ニア貿易即ちポルトガル式の奴隷船貿易を秀吉同様に訝しく思ってた。しかしここに、
切るのに一つの問題があった。綿の輸入である。安価な綿や綿糸であったが、日本では
取れなかった。インド若しくは中国しか無かったのだ。綿や綿糸はそれだけ貴重だった
。が、それでも衣食住は人の基本で必需品だった。
63名無しさん2022/06/23(木) 08:51:11.91
 ジャパン レボリューション。213、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 当初日本は、イスパニア船とポルトガル船と交易していた。毛利元就時代に毛利側に
付いたのが、イスパニア船で今のスペインである。対してポルトガルは大友宗麟側に、
商売していた。この戦国時代に異国船貿易が滞っていたからだ。博多の豪商、神屋寿禎
(かみやじゅてい)は、中国・朝鮮への主要な輸出品であった銅を入手する為に、石見
地方の東隣に当たる出雲地方に向けて、日本海の沿岸を航行していた際に、南の山に、
霊光を発見して銀山の存在を知ったとされている。で、寿禎の頃は典型的な中国の船を
模した宝船の形であったろうと思われる。それに中東のダウ船の帆も付けて、風に早く
対応する事をした。大きな帆はそのままでは台風で折れるからだ。従って、台風の多い
東シナ海に西洋船は不向きであった。速度を遅くしても直ぐに折りたたむ事が出来る、
蛇腹帆との併用使用である。これが日本式のジャンク船となった。ダウ船は「縫合船」
と呼ばれるグループに分類される。縫合船は剛体ではない柔軟な、また修理がしやすい
構造でもある。つまり、鎧構造での作り込みだダウが、こうした構造を持つ理由には、
いくつか考えられているが、その一つがダウ船が製造されたアラビア半島では、鉄釘の
原料となる鉄の資源が乏しかったという説である。アスファルトで板を積み上げた船が
遥かに安価にできる。これが中国ではジャンク船となる。ダウ船は大きさスピード船足
船底と色んな種類があるが、いずれもカーテンロール式の帆で2本若しくは3本の帆だ
だが、中国で発展した形は蛇の目傘方式で片方は一点固定である。どこから変わったの
か判らないが東南アジアの南支那海当たりの雨事情で、帆より屋根が必要とされた様だ
つまり、今のヨット型のセールなのである。この小さな倉庫型のジャンク船に限っては
今でもベトナムやマレーシアにありそうだ。彼らにとっては船と言うより家であり海も
河も商売上の場所に過ぎなかったのだろう。恐らく簡易な帆でジャンク=贋物という事
で付いた名なのだろう。大きくとも本式でなく、ダウ船の物真似船だったのだろう。

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