1名無しさん2020/07/26(日) 21:41:41.65
誰も書き込むなよ
48名無しさん2021/05/21(金) 13:54:23.58
  世界の行末・・・・・・29

この石油資本は、2000年、中国石油化工集団公司は企業集団内の石油関連事業の会社を
整理統合し、子会社の中国石油化工股分有限公司を設立する。同子会社は香港、上海、
ロンドン、ニューヨークの各証券取引所に上場してその後、2017年に中国石油天然気集
団公司を立ち上げ、全民所有制企業から国有独資公司へと会社種別を変更して中国石油
天然気集団有限公司となった。だが、旺盛な石油需要を背に、中国石油化工集団公司は
依然として全民所有制企業のままである。2009年に、イラクや西アフリカの石油権益を
持つスイス石油大手アダックス石油を買収。2010年はスペインの資源大手レプソルYPF
のブラジル部門の株式の40%を取得。2011年には、カナダのアルバータとブリティッシ
ュコロンビアの州をまたがる油田とガス田の石油・天然ガスのデイライト・エナジー社
を22億カナダドルで買収して海外展開している。ここに葉氏の渤海華美集団公司が登場
する。葉氏は「経済犯罪」の容疑で勝手に中国政府の捜査を受けて拘禁され、2018年の
初頭から行方不明となった。中国の投資会社・渤海華美股権投資基金管理有限公司、(
通称:渤海華美)の取締会のメンバーとしてハンターバイデン氏が名を連ね、2017年8月
にハンター氏は、香港の金融業者・董功文のメールで、以前から華信と3年間の契約を
結んで、年間1000万ドルの供与を「紹介費」として受け取っていたことが判明している
。上海を拠点とする華信集団は、2018年の中国政府の腐敗一掃キャンペーンの標的にな
ったが、中国最大の純粋な民間石油会社だった。同社はロシア、東欧、アフリカの一部
で数十億ドル規模の事業を手がけ、創設者の会長の葉簡明氏は、中国共産党上層部と親
密な関係にあったとされ、渤海華美の「海外での合併と買収の過程で渤海華美は、中国
企業に資金を提供するだけでなく、広範な国際ネットワーク関係と経験豊富なプロジェ
クト実行チームを持っている。」会社だった様だ。しかし葉簡明氏の突然の行方不明と
共に2019年から国有企業が管理することになったと報道している。民間会社を国営企業
が喰った形だ。
49名無しさん2021/05/21(金) 14:22:57.98
  世界の行末・・・・・・30

 なぜ チャイナペトロなのかは解らないが、そもそもペトロの名は、ブリティッシュ・
ペトロリアム(British Petroleum Co.,P.L.C.(Public Limited Company)が発祥であ
る。イギリス最大の石油メジャーで今やBPと変わっている。ロンドンに本社をおいて
1900もの関連会社を有し、70ヵ国以上で事業活動を行う巨大メジャーである。石油関係
のすべての分野で事業活動を行い、同時に天然ガス・石炭といった他のエネルギー分野
にも事業を拡大していて総合エネルギー企業となっている。加えて、化学・食品・情報
技術等の産業を抱えるコングロマリットである。イギリスヴィクトリア女王崩御して、
長男エドワード王子がエドワード7世として即位した時代の話で、まだ中国に清王朝が
存在していた時代に遡る。BPの前身は、1901年イラン政府が「W.K.ダーシー」に与え
た石油利権を開発するために09年設立されたアングロ・ペルシアン石油会社(Anglo‐
Persian Oil Co.Ltd.)が発祥である。オーストラリアの鉱山技師のダーシーは1901年
にイギリス政府のアシスタントでイランのカージャール朝国王要請から、全南部諸州の
中部イランの大部分の莫大な鉱区の石油開発利権を入手した。約7年間空の油井ばかり
掘り続け資金を使い果たした頃に、1908年5月アフワーズの北約9kmの、マスジェデ・ス
レイマーンで豊富な油田を掘り当てることに成功したのである。翌09年にイギリス政府
の援助を受けアングロ・ペルシアン石油会社(ブリティッシュ・ペトロリアム会社の前身)
が設立され採油が行われた。1901年のイラン政府のダーシーに与えた石油利権を開発す
るために設立されたアングロ・ペルシアン石油会社は、戦争と政変によってその後35年
にアングロ・イラニアン石油会社に改称した。1953年はまだ、パーレヴィー朝のイラン
であり国内を欧州化する事に努力していた時代だった。パフラヴィー朝イランの第2代
にして最後の皇帝(シャーハンシャー)である。パフラヴィー2世と呼ばれ、亡命前後
の日本の報道ではパーレビ国王と呼ばれることが多かった。父である先代の皇帝レザー
・シャーの退位により即位し、「白色革命」を推進してイランの近代化を進めていたが
、性急な米国諜報部の活動でイラン革命が起こり失脚した。
50名無しさん2021/05/21(金) 14:23:21.64
シャーはドイツと同盟して
第一次・第二次共に 軍の発動はしたが、雪山越えの進軍ができずに敗退した。
51名無しさん2021/05/21(金) 14:57:31.39
  世界の行末・・・・・・31

イラン皇帝レザー・シャーは、第一次大戦の敗因から、最初はアメリカ合衆国に接近す
るが、限定的な関係しか持てなかった。その為、その後ナチス・ドイツに急速に接近す
る。1941年6月のドイツのソビエト侵攻によって、イギリスとソビエト連邦が連合国と
なったのがシャーを苦しめた。これにより、イランは連合国にとって非常に重要な拠点
となったのだ。アーバーダーン油田は1940年で 800万トンを産出し、連合国の戦争遂行
において極めて重要なものであり、それがナチスの手に落ちることをイギリスは恐れた
。また、ソビエトにとってもコーカサス地方に隣接するイランは戦略的に重要な拠点で
あった。大英帝国は既に民間の石油会社を買い上げ大英帝国の国王の持ち物に変えてい
た。ロイヤルダッチシェルは、ロイヤルがダッチシェルを買い上げ事実上海軍のものに
変えていたからだ。1941年、ドイツ軍は順調にソビエト領内を進軍して、連合国にとっ
ては、アメリカ合衆国はレンドリース法を制定し、合法的に武器貸与をソビエトへ行う
方法を限定的だが行われていた。ソビエトの北極海に面した港であるアルハンゲリスク
やムルマンスクへの輸送は、港が不凍港でも、大量の流氷や沿岸氷結など物資の輸送を
困難があった。Uボートによる群狼作戦の通商破壊工作の損失も無視できなかった。そ
の為、南方イランの経由で鉄道輸送を図り、これらの問題を解決してペルシャ湾経由の
輸送ルートは、非常に適しているものであった。イギリスとソビエト連邦の二カ国は、
イランとシャーに共に圧力をかけていた。が、これはむしろ緊張を高め、首都テヘラン
では親ドイツの暴動を引き起こした。そのため、レザー・シャーはイラン国内に居住す
るドイツ人の追放を拒否し、連合国による鉄道利用を認めなかった。イラン側の反応は
この事で連合国に武力行使を決意させ、1941年8月25日に、イギリスとソ連はイランへ
の侵攻を開始するいのである。シャーは米国に救済を嘆願したがルーズベルトからの
返答は、シャーの国をアメリカ合衆国大統領が救済する気が無いことで、嘆願は失敗に
終わった。この重要な補給路は蹂躙され、ペルシア回廊はソビエト連邦へ大量補給供給
基地になったのみならず、中近東のイギリス軍にも物資を供給した地になった。
52名無しさん2021/05/21(金) 15:00:33.56
  世界の行末・・・・・・32

イランでは、1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦中には、レザー・シャーがイラン
国内に居住するドイツ人の追放を拒否して、連合国に鉄道の使用を拒否する。こうして
イランは急速に枢軸国のドイツに傾斜して行った。このために、連合国のイギリスとソ
ビエト連邦は、1941年夏に鉄道を含む補給路と、石油などの豊富な資源の確保のために
イランへの侵攻を行った。この侵攻を受けてレザー・シャーは、連合国の一国でイラン
との関係も深かったアメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領に仲介を求め
たものの 拒否され9月にはイラン軍は制圧された。その後イランは、両国による共同
進駐を受け、両国の圧力を受けて退位した父に代わり、モハンマド・レザーはモハンマ
ド・レザー・シャーとして皇帝に即位し「白色革命」を推進してイランの近代化を進め
ている。皇帝はしかし、モハンマド・モサッデク政権が誕生し1951年より石油国有化を
進めソ連に接近する首相と対立する。1953年にCIAとMI6の支援を受けた皇帝派のファズ
ロラ・ザーヘディー将軍らによるクーデター(アジャックス作戦)が起きてモサッデク
首相は失脚し、権力を回復したが、このやり方が尾を引いた。石油国有化を断行したモ
サデグ政権を倒した軍部クーデタでいったん実権を失い海外に亡命していたパフレヴィ
ー2世が帰国したが、この秘密警察サヴァクを動かして左右の反体制運動を取り締まる
など権威主義体制を敷き、上からの指導改革を図って経済成長を目指すといういわゆる
開発独裁体制を確立する道を歩いたからだ。日本の飛躍的な経済成長に注目して1963年
からは石油の輸出により獲得した外国資本とアメリカ合衆国による経済援助を元手に、
白色革命は、土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、
教育の振興、農村の開発などの改革を実行し、イランの近代化を進めが、一方で親欧米
路線のもと引き続き欧米諸国の外国資本の導入によって、欧米の諜報工作員がはびこっ
た。こうして専制政治を復活させた事で、イランの石油国有化を中心と民族主義政策は
挫折したが国民はより性急な改革に反対が起こっていた。
53名無しさん2021/05/21(金) 15:01:11.49
  世界の行末・・・・・・33

 元々はアメリカはモサデグ政権まではイランの石油資源に対して権益を有していなか
った。1953年のモサデグ政権を転覆させるクーデタでは、アメリカのイラン進出の
好機となり、事実、その黒幕となった。アメリカの諜報機関CIAはアメリカ国務長官
ジョン=フォスター=ダレスが、弟のCIA長官アレン=ダレスとともにクーデタ計画
を練って、駐イラン大使に実行させたものだった。CIAの資金でテヘランの貧民層を
買収し暴動を起こさせたのである。こうしてアメリカはクーデタ成功によってイラン国
内に橋頭保を築いた。イギリスからイランの石油資源の40%を得ることを約束され、
後になっては、このイランでのアメリカ外交政策の搾取への反発が強くなり、1979年の
イラン革命ではアメリカ大使館占拠事件が起こる原因ともなった。イラン革命の指導者
ホメイニはこの歴史から、アメリカを「大悪魔」と呼び、アメリカ大統領ブッシュは、
イランを「悪の枢軸の一員」と呼んで憎悪し合う遠因であったのだ。しかし1953年
のアメリカの介入によるクーデタは今や慄然とアメリカの失敗とされる。既に映像で、
この時のクーデタ展開が、全くイギリス諜報員とアメリカ諜報員の誤解によって生まれ
た事が証明されている。即ちシャー国王の訪欧期に革命が起きそうだが、内情を教えて
くれと言う電文が送られ、イギリス諜報員が内情を理解した。エリザベス船内から。と
返電した。だがこの電文が、エリザベス女王陛下が応援する。と理解されてCIAが動
いたという、何ともお粗末な物だったのだ。英国はこの石油利権を米国に分ける事には
消極的なのは当然だったのに。である。このクーデタはイギリスの石油資本(アングロ
=イラニアン石油会社)とアメリカのCIA(中央情報局)が仕組んだものとされて、
これ以後は石油市場を安定させるため七大石油会社の合弁会社がパフレヴィー2世と、
協定を結びイランの石油生産を支配することとなった。こうして54年にブリテッシュ・
ペトロリアム(British Petroleum Co.,Ltd.)となり,80年に現社名となる。
54名無しさん2021/05/24(月) 18:15:37.26
  世界の行末・・・・・・35

 このイラン提訴のICJが1952年07月22日の判決を下して、イランの主張を全面的に
認め、国際法上は、この事件で石油利権協定が国家間の条約ではないとした事は大いに
、国際社会の先進国の独断的な流れを止めた。国連総会で、アイゼンハワー米国大統領
による『Atoms for Peace』と呼ばれる歴史的演説が行われたのは、次の年の 1953年で
あった。国際世論の後押しで、1950年代から1960年代は、世界各国での「原子力の平和
利用」が叫ばれ大いに研究ga始められた期間といえる。日本でも、1955年に、原子力
基本法を成立させて、これが日本における原子力利用の始まりを促進した。基本法では
、原子力の研究や開発、利用は平和を目的としたものに限ることや、「民主」「自主」
「公開」の三原則にもとづくことが定められて始まった。原子力基本法の原案の大半は
、後に首相となる中曽根康弘氏が委員長を勤めていた衆院両院合同委員会で決定された
。また、この法律で設置が定められた「原子力委員会」の初代委員長には、正力松太郎
氏が就任した。この時点で日本は大きな間違いを犯している。つまりこの正力松太郎が
単なるアメリカ賞賛主義者の新聞社社主であり、何ら原子力による知見も研究も分析も
ない人間であり、結果的に推進を後押しした国家的政治決断の行使者でしか無かった事
である。つまり知見や知識がなくあくまで推進モデルの先駆者であった為に経済上優位
のシンプルに規制の概念がないままに進んだのだ。当時の日本に、原子力発電(原発)
を建設するノウハウはない。米国や英国などに協力を仰ぎ、原発の開発を進めるしかな
くまた、先端技術の原発を、民間企業のみで開設することは難しかった。国も一致協力
して「日本原子力発電株式会社(日本原電)」会社を立ち上げ1966年、日本で初めてと
なる商業用原発の、日本原電の東海発電所を作った。茨城県那珂郡東海村に建設された
英国から導入された「黒鉛減速ガス冷却炉」の運転がなされた。核分裂によって放出さ
れる中性子の速度を、黒鉛によって下げる旧式だが、当時は最先端の秘密の技術だった
。この運転開始により、原発に関する日本への技術移転が始まり、徐々に国産の原発が
開発される。
55名無しさん2021/05/24(月) 18:16:04.76
  世界の行末・・・・・・36

 この原発輸入し運転に及んだエポックは、随分と日本のエネルギー供給を楽にした。
世界では、現在主流に「軽水炉」建設であるが、これの標準品がアメリカからもたらさ
れ福島原発一号機となった。1950年代末期の福島県は高度経済成長の波に乗り遅れ産業
近代化率も低位であった。福島県は産業誘致のため電源開発に努力し茨城県助川から浜
通り夜ノ森以南にかけて広がる石炭産業と林業は衰えていた。新たなエネルギー源を模
索していた東京電力は原子力発電課が設けられた1955年頃、東京電力の電源構成を従来
の石炭石油火力の転換が始まった頃で、石炭火力の後継の燃料として石油を使用する事
が殆どだった。がこの検討されて社内では折からのブームに乗った原子力の方が、石油
火力より実現に向けた動きで先に手をつけられるものとなった。1号機を選定した際に
、東芝に助言を貰いスペインにて先行して工事が進められていた同型炉の計画を活用し
た。モデルとなったサンタ・マリア・デ・ガローニャ原子力発電所1号機は内陸にあり
、契約業務と並行してプラントレイアウトについて検討が進められた。熊谷組に敷地造
成、冷却水路関係、物揚場護岸を頼み、間組にその建設の原石山骨材プラントを発注し
た。前田建設がバッチャープラント、コンクリートブロックの制作を行い、五洋建設が
防波堤を作った。日本の原発電源開発は米国から導入した動力試験炉 JPDR(BWR)1963
年10月26日運転開始が出発点である。原研の動力試験炉(JPDR)は35年以来、ネラル・エ
レクトリック・ジャパン社 (GEJ)によって建設がすすめられて導入された。その後英国
から導入した東海発電所(GCR)が1966年7月に営業運転を開始し、日本で初の商業原子
力発電の幕をあけた。と公式文書はなっている。この頃各電力会社は、米国が開発した
発電用原子炉の導入計画して、福井に関西電力美浜発電所1号(PWR)が1970年11月に、
また福島県大熊町に東京電力福島第一1号(BWR)が1971年3月にと、相次いで営業運転
開始し、原子力発電は本格稼働した。
56名無しさん2021/05/24(月) 18:17:39.46
  世界の行末・・・・・・37

 よく1964年東京五輪と1970年の大阪万博がエポックとして取り沙汰される。しかし、
それは1966年の商業用原子力発電で未来を見た日本人の夢が、その活力であったように
見える。当時表立って喧々諤々の議論は残ってないが、アニメブームに振り返ると多く
の漫画が原子力や核といったものに毒されているのが解る。バットマン・スパイダーマ
ンに及ばず日本でも仮面ライダーに009、鉄腕アトム・ビックX・ワンダー3・8マ
ン・スーパージェッター・マッハ55・ジャイアントロボ・マジンガーZ…etc…と
万博開催期までは、ありとあらゆる所で知らないうちに取り上げられている。1975年頃
の万博終了で、一段と高度成長政策で、電源不足の解消に官民一体となった軽水炉改良
標準化計画がスタートした。軽水炉技術の改良標準化の努力で国内原子力発電の経験と
技術開発、海外技術の結集が行なわれた。第一次改良標準化計画は、BWRの 応力腐食や
割れ(SCC)やPWRの蒸気発生器伝熱管の損傷といったトラブル対処や運転保守上不具合
の解消で、稼動率を上げて初期設定予定稼働の実現であった。また、高速増殖炉の商業
化が実現すると期待され、安定稼働の実現に乗り出す事を意図していた。この経過から
次に第二次改良標準化計画が策定された。?機能の自動化、遠隔化等による保守点検の
的確化?作業スペースの確保、機器配置の改良、作業能率の向上等での従業員の被ばく
低減化?機器の信頼性及び稼動率の向上が求められ、各系統や機器に標準化された設計
の繰返し採用によりプラント設備の信頼性向上と、標準化された設計のプラントを積極
的採用で、機器材料の計画生産を可能にし信頼性及び経済性の向上とプラント間の機器
や部品類の互換性により建設保守の効率化を行った。第1次及び第2次改良標準化での
価格の低減化成果が反映され、第2次改良標準化の成果として、BWR プラントでは柏崎
刈羽2〜5号、浜岡4号、島根2号、女川2〜3号、志賀1号があり、PWRプラントでは、大飯
3〜4号、玄海3〜4号、伊方3号が共通部品として供給に至っている。
57名無しさん2021/05/24(月) 18:18:12.00
  世界の行末・・・・・・38

 こうして、第三次改良標準化計画で、改良型軽水炉(ABWR,APWR)が開発されていき
、1986年に改良標準化計画は終了した。この間動燃事業の破綻やプルサーマルサイクル
が確定せず、今だ再処理に至ってない上に、福島の事故やもんじゅの事故が発生した。
この第三次計画の成果のひとつとして 柏崎刈羽6号(1996年11月)7号(1997年7月)
の建設・運転開始はABWRとしては世界最初となった。さらに最近は、浜岡5号機(2005
年1月)、志賀2号機(2006年3月)が営業運転を開始した。2004年度の原子力発電での
電力量は282,442 百万kWhで総発電量の30%を供給するに至った。2004年度では53基
の原子力発電所(BWR30基、PWR23基)が運転中で、合計設備容量47,122kWは世界三位で
あった。1970年、大阪で日本万国博覧会が開催された年に、高度成長期の真っ只中にあ
って、未来を担うさまざまな先端技術への期待が高まり、こうした世の中の流れの中で
、「原子力は発電に利用することのできるエネルギーである」という認識が、日本にも
広まって設置された原子力政策も今や頓挫している。1973年には第一次オイルショック
が起こったがこれを軽減し、1978年には第二次オイルショックに、世界各国が石油資源
に依存しすぎるリスクから、混乱を呈した。日本でもオイルショックによる混乱は大き
く世界各国と同様に「エネルギーの安定供給」が重要な課題として認識され、その解決
策のひとつとして、原発に注目が集まるようになりました。勿論シーレーン防衛も又、
その一環ではあったが、この時に日本における原発の導入に拍車がかかってが進み始め
ている。1973年、当時、首相を務めていた田中角栄氏は「原子力を重大な決意をもって
促進をいたしたい。」と述べたし、1974年に、此の為の 発電所の立地を促進する立地
地域への交付金を定める法律が整備された。原発の導入が進んだ背景に、こうした政策
の後押しによるものもあり、ここにいたるまでの間に原発に対する理解が 日本社会の
中で進んで来たことと、また電力需要が増大する中でのエネルギー供給の安定化という
社会の強い要請もあったことを、又再考察すべき時になって来ていると言える。
58名無しさん2021/05/26(水) 17:35:54.01
  世界の行末・・・・・・39

 このA−の付く 改良型加圧水型原子炉(Advanced Pressurized Water Reactor、:
APWR)は加圧水型原子炉 (PWR) の技術をもとに三菱重工が開発した第3世代原子炉であ
る。中性子経済性、効率、安全性の向上などの改良がおこなわれた。前世代に対して、
パッシブ・アクティブを組み合わせた安全装置、などが、新規採用されている。標準型
APWRは日本での認可作業中で、本方式を採用した日本原電敦賀発電所3・4号機 
(1,538 MWe)が建設中である。次のAPWR+は出力1,700 MWe、プルサー
マル対応となる。アメリカ向け改良型加圧水型原子炉 (US−APWR) は日本向
けをもとに、アメリカ法規に合致するよう改良され、テキサス州を拠点とするTXU社
がコマンチェピーク原子力発電所を含む複数の発電所での採用を決めている。と言われ
ている。S−APWRには経済性向上のための改良が盛り込まれてその中心となるのが
反応性向上し、濃縮ウラン使用量を最大0.1wt%節約できる鋼製径方向中性子反射
体と言う炉心である。それに加え、US−APWRは日本向けAPWR・APWRより
も改良された蒸気発生器を採用し、より乾燥した蒸気を発生させることで高効率で繊細
なタービンを使用することができる。これにより、日本向けAPWRに対し最大10%
の効率向上が見込まれている。各種の安全装備の改良も行われて必要能力の50%の能
力を持つ水循環系4組を備え、合計100%となる2組の場合に比べ冗長性を向上した
。サイズが大型アキュムレータ採用により信頼性が向上し、このパッシブシステムの改
良により、従来のアクティブシステムであるSafety Injection systemが廃止された。
こうした技術革新には日本人は長けており、どうして原燃事故やもんじゅ廃止になった
のかが 国鉄民営化と共に 不思議でならない。公共体の怠慢である。日本政府は何を
持ってこれからの日本を未来へも経済大国として 維持しようとしているのか、全く見
えない政策だらけである。原子力維持と共に安価な電気代は、これからも求めていくべ
き物だろう。
59名無しさん2021/05/26(水) 17:42:33.06
  世界の行末・・・・・・40

 この原発問題については、日本の国会議員はふざけていると思う。原発事故が自民党
野党時代にあったとは言え、原燃事故や東海事故更にはふげんや文殊の多々の事故など
あらゆる事は自民党のやった事だ。仕様年限の過ぎた廃炉決定に東京電力が耐用延長を
申し出た時この承認をしたのは他ならぬ小泉政権であり安倍氏配下の議員達ではないか
。世界の行く末を見る時、地球温暖化は石油・石炭の二酸化炭素排出やらオゾン層破壊
のクーラーやエアコンガスであるフロンと言うのは、とんでもない間違いである。一般
にこうした研究はアメリカや欧州系の対抗企業の反対運動者への資金享受で行われる。
グレータ・トゥンベリが社会運動家でその演説は賞賛されるものの反捕鯨団体のグリー
ンピース(GP:Greenpeace International)やら世界自然保護基金(WWF:World
Wide Fund For Nature)国際動物福祉基金(IFAW:International Fund for Anima
l Welfarek)などを見る様に、やってる事は科学的証左のない、言わば隣のおばちゃん
が勝手に野良猫に餌をやって、カラスや鳩まで引きつける行為の国際版である。また、
「海の羊飼い」と訳されるシーシェパードに至っては犯罪者集団である。こうした姿は
学園闘争時代にあった日本の1968年当時と同じテロ的物だ。つまり暴力革命指導家
の言う「プロカバガンダとは何か。それはインフォメーションでありインフォメーショ
ンは、真実である。真実とは即ち武装闘争である。こうして社会への挑発を伝える事が
使命だ。」とまあ日本的には「広報活動とは何か、人々の意識の啓蒙啓発活動とは即ち
、それは実行動でに置いての衝撃である。」とした回答をしてる。ゲリラ活動その物の
信奉での暴力革命指向である。これは、チェ・ゲバラが来日した頃の1969年の学園
闘争に明け暮れる時代の思考で、反社会的なナショナリズムで、社会の変革にはついて
いけない人が「人の解放」を叫びヒッピーになった。世代格差に家庭を出たのだ。女性
解放運動ではノーブラで行こうと言う運動まであるほど放埓だった。だが、本当の社会
運動とは、出光が石油を運んだ様に 必要物資の供給であり、例えば日々の食糧供給で
日本の値上げやらインフレと戦い抜いて安価供給をやる企業だったのである。
60名無しさん2021/05/26(水) 17:53:15.03
  世界の行末・・・・・・41

 こうした、社会システムに大きく影響し、出来得る限りの方策を技術的に行う事こそ
日本の生きる道であり、その意味では原発推進は、黒部ダムに見る様に、自然破壊を、
したり巨大事業の建設での人命を落とす事を最小限にと考えられた妙策であった筈だ。
戦争によって日本の原子力推進は、かなり落ちたが、今や培ってきた技術が、サイクロ
トロンなど素粒子発見の粒子加速器に活きている。又、国内の食糧やエネルギーの資源
調達が乏しい中での、大きな社会使命を全うさせている。例えば今水道蛇口が盗まれる
事態が発生している。こうした事は金属需要の高まりからの廃棄金属の高価を狙っての
事だろう。ところがそうした輩を輩出させない事、所謂、防犯意識の少ない安全国家に
導く事こそ世界の指導者の在り方である。台湾の行動を規制して居ながらワクチン供給
の用意があるなどと言う、全くまともにない中国の茶番劇を、我々は決して許してはな
らない。海洋権もない国が人工島建設をしてるのだ。アメリカはその責任は取るべきで
あろう。このウイルスではワクチン供給そのものが、人類の生存延長への寄与者であり
、日々その生存権を奪う者のペテンには決して動じてはならない。この社会で、温暖化
現象の諸悪の問題は、中国米国ロシアにあるのは他ならない事実だ。石炭石油の火力が
全く影響ないとは思っていない。しかし、原子力だろうが石炭火力であろうが自然エネ
ルギーだろうが電気を発する為の大きな熱源は、エネルギーそのものが大きな温暖化の
素であると思っている。この事から、まずは総じて発生熱量計算が不可欠で、戦争起こ
したり巨大爆発を起こしている国にはそうした事の無駄こそが省くべきだと思う。中国
が無理やり先進国社会の様式を真似て便利な生活をしようと言うのは解らないではない
。が、しかし、それこそが混迷の素でゆっくり進む事で、デモや社会不安を抑える秘訣
なのだと知るべきである。基本的には昔の生活でも、今の生活でも。大差はない。究極
的に富者がより富んだ暮らしをするだけで、便利さと、豊かさは、決して同一とはなっ
ていないのが社会の常識である。見かけ倒しの今の方が貧乏で冷酷社会である事の方が
多いのも現実である。そんなに急いで先進国の仲間入りして一体幸せはあろうか。
61名無しさん2021/06/13(日) 08:49:30.22
  世界の行末・・・・・・42

 原発問題に関して戻って言えば、大いなる人類の未来に対する挑戦である。日本にて
このエネルギーの格安化は、復興する中での至上命題であった。いわゆる加工貿易国家
として生計を立てていた時代に、他国より品質のいいより手入れして技術の高い機器を
作る為には、労働コスト以前に、資源コストと取り分け輸送コストとエネルギーコスト
の縮小が至上命題だったからだ。日本において、石炭石油の類は江戸期に発達しなかっ
た。それは砂漠の地の地獄の炎と言われる地下からの天然ガスの噴き出す地でも同じで
あった。それは欧州人の様には余裕ある生活、つまり貴族の様な奢侈な生活を好んでは
居なかったからだ。先に言ったように、基本的には昔の生活でも今の生活でも大差はな
い。究極的に富者がより富んだ暮らしをするだけで、便利さと、豊かさは、決して同一
とはなっていないのが社会の常識である。見かけ倒しの今の方が貧乏で冷酷社会である
事の方が多いのも現実である。これでは幸せを得る機会がない。これは足るを知る。と
言う事であろう。我々が日常的に飽食の時代に遊び、夏に氷を使いアイスを食べ、冬に
暖房の利いた部屋で鍋をつつくが、これは江戸時代の暮らしから言えば豪奢な殿様暮ら
しである。これを欧米人が導き 全世界が望んだ暮らし、と広言し、欲望の認識を植え
付けに成功して経済活動している。こうした価値観を今更変える事ができるだろうか。
確かにグレータ・トゥンベリさんは、石油を使わないヨットで米国大陸の来た。しかし
、それこそが、現代で今一番の貴族的豪華な生活行動であろう。世の中には、地球汚染
されるから火星へ移住計画するとか、月の資源発掘だと宇宙の開発まで無駄に研究され
ている。だがこうした考え方は、一体地球を大事に守る気はあるのかと問いたい部分が
ある。日本人の先人達が築いた過去の英知の古民家を壊している様な事を見るが、これ
こそがアングロサクソン系のユダヤ式のレバノン様式の国家経営に通じた世界侵略であ
るし、日本人さえも真似ている事に憤慨である。

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